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亀井勝一郎「第二の誕生日:青春時代」

亀井勝一郎「第二の誕生日:青春時代」_c0300585_2201792.jpg 第二の誕生日について述べよう。第二の誕生日はいつ来るか。それは青春時代である。第二の誕生日の特色を一口に言うならば、自分自身にたいして最初の質問を発する日である。幼年時代や少年少女の頃は、自分にたいして自分で質問を発することはないが、青春時代に入って己れというものが目覚めて来ると、己れにたいして質問を発する。どういう質問を発するか。第一は、自分とは何か。第二は、人生とは何か。第三は、自分は何処へ往くか。この三つの質問を自分に対してはじめて発する日、それが第二の誕生日である。

 自分とは何か、人生とは何か、自分は何処へ往くか、という問いは大変な問いである。自分で答えようとすることは、つまり一生涯死ぬまでかかって何事かを為すということだ。人は死によって己の何ものであるかを語る。人生とは何か、これも自分のいのちのある限り極限まで生きてみなければわからない。或は遂にわからないかもしれない。自分は何処へ行くか、自分が歩いて行ってみなければわからない。つまり一生全力を尽して倒れる。自分の屍をもって答えるより以外にないような、そういう答を要求している質問なのである。青春時代とはそういう問いの時代なのだ。生涯の難問を己に課す日なのだ。青春時代の悩みとは、一生かかって答えなければならないような質問を自分に発するというその苦悩に他ならない。これは誰でも経験するところであろう。

 自分はいったいどういう性格の人間だろうか、自分の個性とはなんだろうか、自分はどういう仕事に適するだろうか。──ひとは必ず青春時代に入ると共に、かかる自問を発するに違いない。が、それに答というものは出て来ない。たとへ答えてみたところで、また他人から指示して貰ったところで不安定なものにすぎないだろう。しかも答を与えなければ止まない──という、その性急なところが、青春というものの特権であり苦悩である。そういう人生上最大の悩みにたいして、全生命力を傾けて行く、それだから青春というものは美しいといえるのだ。また青春時代に死を考えるのも、心を傷めて自殺を思ったりするのも、そこには感傷もあろうけれど、根本的にいえば最大の質問を自分に発して、その答がすぐ得られない──という青年に特有の性急な気持から起こる悲劇なのではなかろうか。青春時代は、従ってその人の一生の縮図だと言ってもいい。人間はいくつになっても、自分とは何か、人生とは何か、自分は何処へ往くか──というこの三つの質問を止めるときはない。そういう重大な問いを自分にまず厳然と発する。それが青春の意味である。青春時代が重大だといわれる所以はここなのだ。

 ところが青春を過ぎて、次第に生活に疲れ世俗にまみれて行くと、いつのまにか我々はこういう質問をしなくなるものである。青春時代とは別の意味での危機が来る。危機を回避するという危機が来る。この三つの問いを絶えず自分に発しているかいないかということによって、我々の中年は決まるのである。あらゆる分野で、年をとっても何事かを為しつつある人物とは、どういう人物かというと、つまりこの三つの問いを絶えず自分に繰り返し繰り返し発しながら、人生を究めて行こうという人である。別な言葉でいえば、それを永遠の青春という。

(亀井勝一郎1907-1966「人生論」1943年/『亀井勝一郎全集第十巻』1971年講談社/一部編集/四木)




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by up-mykokoro | 2014-11-10 22:06 | 図書・サイト紹介


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